罰など当たるはずもなし

 親が子供を叱るときに、「そんなことをしたら罰が当たるよ」などということがあります。
 「罰が当たる(ばちがあたる)」とは、「悪いことをすれば自分に返ってくる」あるいは「悪い行いに対する神仏の懲らしめを受ける。」という意味で使われます。
類似の言葉・仏教語に、「因果応報」=「人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。」(大慈恩寺三蔵法師伝)という言葉がありますから、「罰が当たる(ばちがあたる)」という言葉・考え方は仏教がルーツなのかもしれません。
 しかし、冷静に考えると「罰が当たる(ばちがあたる)」=「悪いことをすれば自分に返ってくる」とは、「風が吹けば桶屋が儲かる」的な、トリッキーな言葉だと思うのです。おそらく、「悪いことをしてはいけない」ということを、説明する困難さを回避するために考えられた言葉なのだろうなと思います。「悪いことをしてはいけない」ということを他人に納得させるように説明するのは、意外と難しいですから。
 ところで、罰が当たったように見える人に対して、それは以前お前(自分)が悪いことをしたから罰が当たった、という風に逆に考える人がいるのではないでしょうか。
 しかし、これは誤りなのですね(下記(注)を参照のこと)。
 (注)「AならばB」だとしても「BならばA」にはならないことに注意しいただきたい。
 「AならばB」であれば「BでないならばAでない」が正解になります。対偶ですね。
 先のケースに当てはめると、「悪いことをすれば、悪いことが自分に返ってくる」が正しいとしても、「悪いことが自分に返ってくるのであるから、きっと悪いことをしたに違いない」は正しいとは言えず、「悪いことが自分に返ってきていないのだから、悪いことはしていない」が正しいことになります。

 話は変わりますが、最近、不思議に思うことがあります。
 例えば、SNS上でウイルス感染者に非があるがごとき論調の発言があったりします。
 例えば、罹患した人が謝罪会見をしたり(させらりたりしたり)しています。
 被害者攻撃、被害者に非があることを「是」とするという考えはどこから来るのでしょうか。
 もしかすると、「罰が当たる(ばちがあたる)」を信ずる考えに近いのかも知れないとも思うのです。
 ウィルス感染に当てはめると、
 ウィルス感染した。
 ⇒それは以前お前(自分)が悪いことをしたから罰が当たったに違いない。
 ⇒すべて、お前のせいなんだよ、自業自得なんだよ。
 そんな、思考パターンで、感染者に非があるがごとき論調となっているのではないでしょうか。
 まず、「罰が当たる(ばちがあたる)」=「悪いことをすれば自分に返ってくる」には根拠はありません。
 「罰が当たる(ばちがあたる)」=「悪いことをすれば自分に返ってくる」が仮に正しいとしても、「悪いことが自分に返ってくるのであるから、きっと悪いことをしたに違いない」は正しいとはいえません。
 だから、被害者が攻撃され、謝罪しなければならない状況は馬鹿げていると思うのです。